小説1

 不癒子が右脚を悪くしたのは夏の陽射しに目の眩んだ運転手の操る自動車に撥ねられたせいでしたが、このとき悪かったのは運転手だったのか、巨大な鋼の塊たる自動車だったのか、夏だったのか、自分自身だったのか、不癒子には分からないままです。
 夏が近づいてくると、不癒子は不思議な感慨と共に事故現場に立たずにはいられませんでした。毎日通るはずのその道で、自分の後ろ姿を見るような気がするのです。それは今よりもずっと体の軽やかだった頃の、もう二度と戻れない完璧な不癒子の後ろ姿でした。
 淡路にそう話すと、彼女はぼんやりとした目つきで手元の杯を弄り、「季節の変わり目に風邪を引くようなもの?」と投げ遣りに言います。
「違うよ。でも、淡路にはそういうのある?」
「私も、お父さんが死んだのが夏だったから、ああ、人の死ぬ季節が来るなって思う」
 淡路の視線はやはり不癒子に向かないままです。不癒子は気後れがしました、"人の死ぬ季節" が来る前にぼんやりと自分の幻影を見つめにゆく自分と、何か決定的なことに運命を捻じ曲げられてしまった淡路とではあまりにも違うように思えて。
 淡路は「話すの止めないでよ」と退屈そうに言います。
「もうないよ。終わり。だって本当は季節なんか関係なくて、寒ければ痛いし、雨が降っても痛いし、何ならその日の気分でも脚は痛いから」
「毎日?」
「うん、大抵ね」
 ふうん、と淡路は杯に口をつけます。 
 不癒子は知っています、淡路がどこをも見ないのは、変えようのない過去について考えているときなのだと。そしてそれが、決して後ろを振り向かず、生き急ぐように前だけを見据える彼女の、季節の変わり目に引く風邪のような逃避なのだということ。不癒子が自己憐憫として自己現場を訪れてしまうのとは違う、切実な自傷なのだということ。
 冷めた珈琲を一息に飲み干すと、淡路は不意に「行こうよ、現場」と言いました。
 不癒子はその現場という言葉に忍び込む淡路の生真面目さに、継ぐ言葉をなくします。
 こういうとき、いつもです、いつも淡路は突然不癒子を見ています。あのぼんやりとした目つきの少女とはまるで違う人になったような顔で、怖いくらい真剣に眼差すという行為を遂行します。
 大学からわざわざ電車に乗って地元に戻るほどのことなのでしょうか、後に講義は残っていますし、真面目な淡路はきっとすぐに帰ると言うに違いないのに。
 それでも淡路は聞きませんでした。

 現場は小学校に近い大通りです。見通しはよく、人通りも多い道です。それなのになぜ、と思うのはもう止めました。ただ運が悪かったのです。よくもあります、死ななかったのですから。
 淡路はあの「ふうん」を幾度も口遊むようにしながら、不癒子の周りを動いています。おもしろいことなど何もありません。
 無数の自動車が排気を巻き上げながら通り過ぎてゆき、通行人もまた、一瞬だけ奇異の目を淡路と不癒子に向けてすぐに無関心に去ってゆきます。二人はただ立ち尽くし、指先で触れあいました。
「ね、そのときってどんなだった?やっぱりスローモーションになったりした?」
「ううん。小さい爆発みたいにぶつかって、何が起こったのかよく分かんないまま、急にぼんやりとした感じ」
「ふうん」
 淡路は路傍に蹲み込んで、膝に肘を突いて顎を支えています。不癒子は何となく淡路を立たせる気も起きず、彼女の隣で杖に凭れていました。排気混じりの生温い風が吹いていました。
「夏は嫌なことばっかり」
「淡路は休みに入ったら伯父さんのところに行くんでしょ」
「うん、でも、その伯父は夏が大嫌いで、ずっとだらだらしてるんだよ。私がいたっていなくたって同じなの」
「淡路のお父さんは、交通事故で?」
「ううん。普通に心臓止まっちゃった」
「普通に」
「よく分かんない。そのとき私小学生だったし。お母さんは何も教えてくれなくて、伯父さんの家に突然預けられて……伯父さんは、私よりもずっと、お父さんが死んだのを悲しんでて、なんか……うん、今思ってもやっぱり変な感じ。私ずっと、悲しみ損ねてるもん」
「そっか」
「不癒子はここよく来るんでしょ」
「うん。というか、帰り道。事故があってからも家の場所が変わるわけじゃないし」
「怖くないの?」
「全然。だって、……うん」
「変でしょ、そういうの。そういうのって全部、置き去りで、し損ねちゃったことだよ、きっと」
 またです。また気がつくと、淡路の口調が変わっています。
 真面目な顔をして、全ての自動車を睨むみたいにして、淡路は淡々と言いました。
「不癒子はもう一度痛い思いをしたら、そのときはちゃんと痛がって、怖がって、ぼろぼろになった方がいいよ」
 不癒子は何も言えませんでした。戸惑っていても、淡路は親切じゃありません。決して手を差し伸べません。言いたいことだけを言って、ふと消えはしませんけど、いつのまにかずっと遠くにいます。
 まだ間に合うのでしょうか。不癒子は少し躊躇しました。「淡路も――」
 大型車が唸りを上げて通り過ぎ、温い風が頬を打ちます。何も感じません。ただ脚はいつでも痛みます。不癒子は杖を強く握りしめました。
「淡路も、そうするべきだよ。もし次に、淡路にとって悲しいことが起きたら、淡路はもうだめになってしまうまで悲しむんだよ」
 口調に滲んだのは惨めな焦りばかりで、淡路のあの真面目な鋭さとは全然違います。恥ずかしさが夏を引き寄せて顔が熱くなりました。それでも淡路は笑いません。気圧されるほど真剣な表情のままするりと立ち上がります。
「淡路」
 淡路は道路に近づいてゆきます。歩行者信号は赤に変わり、動きを止めていた自動車が一斉に目を覚まします。不癒子は息を呑みました。淡路の姿に、小さな自分を遠くから見つめるあの二重の感覚が呼び起こされます。
 不癒子は彼女の隣に立ちました。車道ぎりぎりの、重みのある鉄が鼻先に感じられるような距離に並び立ちます。淡路の隣に行くためには、不癒子は脚を引き摺りながらでも追いかけるしかありません。
「不癒子は自分を守ろうと思わないでしょ。小さい頃の自分を、全然、かわいそうだとも思ってない」
 帰ろう、と淡路は言い、踵を返しました。
 不癒子は淡路の華奢な背中を見つめました。告げられた言葉、そして消えない不安が痛みを鋭くさせます。
 淡路があのまま車道に飛び出すことはありません。絶対にありません。 淡路と自殺は、手術台と蝙蝠傘くらい関係のないものです。けれど、"普通に心臓止まっちゃった" ら、どうするのでしょう。眠るように、あの自動車の前に丸まってしまったら。
「不癒子、置いてっちゃうよ。もう大学戻らないと四限間に合わないよ」
「うん、行くよ」
 淡路は軽やかに歩きます。不癒子が着いて来なくても、振り返りもしなければ歩みを緩めることもありません。迷いません。その一見とても自由な姿が、何か運命じみたものに諾々と従う奴隷のようにも見えて、不癒子は不安なのです。不癒子はきっと、死ぬまでずっと、淡路のことが分からないままでしょう。
 怖いのだ、と不癒子は目を瞑り、また開きました。そして杖で地面を打って歩き始めます、淡路の後ろ姿に、一歩でも近づくために。